2012年8月26日日曜日

断定できることを増やしていく

断定できることを増やしていく

ikedahayato.com | Nov 30th -0001

僕は当面、ブロガーとしてキャリアを築いていくことに決めています。いわゆる「物書き」として食っていく、ということです。

何を断定できるか

photo credit: _StaR_DusT_ via photo pin cc

そういうキャリアを歩む以上、「優れた物書きとは何か?」という問いに向き合うことになります。様々な答えがあり、それこそ物書きの数だけ答えはあるとは思いますが、僕が今見いだした答えは「優れた物書きとは、自信を持って"断定"できる書き手である」というものです。

僕は、人の顔色を読んで、記事を書いてきました。「他人を傷つけないため」という言い訳のもと、「かもしれない」「だと思う」といった「逃げ口上」を頻繁に利用して、断定することを避け、自分を守ってきました。

会社を経営しており、社員の生活を守っているのなら、時に守りは必要でしょう。でも、僕は「個」で生きています。家族さえ守れればそれで十分です。

そんなわけで僕は、逃げ口上を吐いていてはいけないと考えるに至りました。できる限り、「断定口調」を使うことに決めたのです。

その最初の実験は、「物書きは雇われるべきではない」というツイートでした。断定口調を使うと、やはり異論がたくさん舞い込んできます。ある匿名おじさんからは「それは若者をミスリードしている」という恒例の批判を頂きました。

僕は自分の経験上、本当に自分の文章が書きたいのなら、雇われるべきではないと確信しています。それは僕が観察した、僕にとっての真実であり、ほとんど揺るぎないものです。

「嫌われるかもしれない」?

僕には、会社に勤めている記者の知人も多いので、「物書きは雇われるべきではない」と語るということは、彼らを暗に否定するということでもあります。

そんなことを言えば、彼らに嫌われてしまうかもしれません。でも、僕はそう思うので、嫌われてもいいから「断定」するわけです。

それは諦めでもあり、彼らへの信頼でもあります。僕がそう断定しても、彼らは僕のことを嫌いになることはない、と信じているのです。

こうした断定は、あくまで「僕個人」が見てきた世界であり、違う世界を生きた人には、また違う真実があるはずです。僕はそれを否定するつもりはなく、むしろそうした意見(「雇われたって自由に書いてきたぜ!楽しいぜ!」)を喜んで聞いてみたいです。

雇われている知人のライターたちも、それぞれの哲学を持っているでしょう。僕はそれを、戦わずして知りたい、差異を楽しみたいと考えます。

根拠なくして断定はできない

ちょっと話が逸れてしまいました。

「断定」するということは、ある程度十分な裏付けと、経験があるはずです。根拠なくして断定を行うのは、信用に関わるのでやめておくべきです。そういう「無神経」な人は物書きとして食っていけないでしょう。それが市場原理だと思います。

様々な経験をして、世界を広く、深く見ていくことができれば、断定できることは増えていくはずです。

僕自身も本を読むこと、人に会うことによって、いくばくか、断定できるものが増えてきました。物書きとは、そうした知的な旅を楽しむ仕事でもあるのでしょう。

断定とリーダーシップ

重要なのは、断定を行う際には、リーダーシップが発生したり、種々の化学反応が生まれたりすることです。

例えば僕が「ライターは雇われるべきではない」と語るとき、

・僕に賛同する人
・「そうなんだ、頑張らないと」と納得するライター志望の学生
・僕の意見を否定する人
・自分のことを否定されたと感じる勤め人の記者の方々

が発生します。湖に石を投げ入れるかのように、波紋が広がり、僕の周りの景色は少しだけ変わります。

僕と、読者の心は乱されます。それは、僕にとってある種の「最適化」です。

僕が逃げ口上を使っていては、こんなことは起こりえません。「あまり自信はありませんが、ライターは雇われるべきではないといえるのではないでしょうか」とか寝ぼけたことを書いてたら、その熱量は格段に落ちるわけです。

自分を守れば守るだけ、広がる波紋は小さくなります。僕は「個」で生きている人間なので、断定できるだけの経験があるのなら、波紋が広がるのを避けるのは中途半端でダサい好意です。

長々と書いてしまいました。そんなわけで、僕は「断定」することを、積極的に行っていきたいと思います。

予防線を張っておけば、時には断定して失敗することもあるでしょう。過去に断定したことを、後で否定することもあるでしょう。

まぁ、それは仕方がないことです。死ぬまでそんな感じでしょう。そもそも、環境や時代が変われば、考えが途中で変わることがあるのは普通です(「やっぱり雇われライターも素敵ですね」とか)。

人生は長いので、生涯修正しながら、物書きとしての生を全うしていこうという感覚です。それを甘いというのなら、僕の文章など、読まなければいいだけです。悲しいがな、たかだか一個人の文章ですし。

何かを断定すればするほど、嫌われることも増えていくでしょう。でも、観測した真実を曲げることは難しいのです。

多分、物書きとは孤独な職業なのでしょう。

いずれは僕も、例えばゴッホのように、同時代に付いてくる人が誰もいなくても、ひたすら自分の感情と哲学に従い、創作を続けられるようになりたいと考えています。そういうキャリアが、理想の「物書き」ではないかと僕は思います。

Original Page: http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/13768

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